絶対等級

詩は日記で日記は詩

君の手

 

 

 

倫理観の更新中なんて

知らず知らずのうちに他者を傷つけて

みんなが楽しんでる時に

誰かが水を差さなきゃいけない時があって

私にとってはあの時やあの時やあの時が

そうだったよね。とかさ。あるよねー。

君にとってはいつだった?

 

 

 

 

 

子供の頃、だいすきな漫画家さんがいました。

 

私が漫画家になりたいと思う

きっかけとなった人です。

 

つらいときは

いつもその人の漫画を読んで

心の支えにしていました。

 

あるとき、その漫画家さんを

好きになった作品の、制作日誌

みたいな作品が出るようになって

 

作者さんが、ほんとうは

気が進まなかったのに描き始めたこと

ほんとうは苦しい思いをしながら

描いていたこと

などを知って、とても悲しかった。

ことを、度々思い出す。

 

もちろん、その人はその人で

それらさえも糧にして

ぜんぶよかった

と思ってることもあるよね。

 

ただ、

 

何かの犠牲の上に成り立つ楽しみとか

支えとか、そういう構造が

もう、もともとダメなんだと思う。私は。

 

こういう例をとってしまうと

犠牲、などという表現は

とても失礼になってしまうことも

あると思うのだけど

 

それでなくてもこの社会では、

搾取的な構造が、あまりに幅を

きかせすぎたと思う。

 

それに、もともと、

競争とか、弱肉強食という生命のシステム自体

嫌いなんです。

資本主義がそれに拍車をかけすぎた。

根本から変わってほしいのです。

どう考えてもこれらを

良いシステムだとは思えないから

 

そういったそもそもの成り立ちを

変えよう、とする人たちのこと

私は応援している。

それを、神かもしくは

“自然さ”への冒涜だとか、

人間の驕りだとか、

止めに入る側にこそ

悪意なき悪意を感じる。

 

自然さがなんだというのだろう。

苦しみのない世界より

“自然さ”のほうが尊ばれるのはなぜだろう。

 

だったら一生、捕食と被捕食のスリルを味わえる原始時代にでも生きていたらいい。

ただし楽しみたい人たちだけでやってほしい。

他の動物や他人を巻き込まないでほしい。

 

 

私は、そういう人間だ。

 

 

 

 

君の声を聴けるようになった、初期の頃、最期の過ごし方について話し合っていたとき、たいていの人は、最期に持っていたいもの、聴いていたいもの、すきなものに囲まれて、死ぬことを望む。と、聞いた。

 

自分だったら何を持っていたいだろう

と、そのとき初めて真剣に考えてみたら

私には、そんなもの、何もない

ということに気づいた。

 

それほど、この世にすきなものとか、

執着しているものが、もはやなかった。

 

 

最期に持っていたいもの。

そうして思いついたのは

しいて言うなら、「君の手」だった。