絶対等級

詩は日記で日記は詩

#国は安楽死を認めてください

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この事件だからこそなんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛は地球を救う」と書かれた車の

きらきらした挿絵に違和感覚えながら

結局そんな車にお世話になるしかなくて

今日も行く。

 

 

毎年のことだから、間が悪いだけだったと、

わかってはいても

このタイミングで#PrayForSagamiharaのタグは

正直かなりキツかった。

 

 11月30日に#PrayFor-tangoleo

なんてタグでも作りたい。ひとりでも。

しかもこの日は個人的にも特別な日だ。

いずれにしても何か相応の事は、ささやかでもしたい。 

 

 

 

 

 

 

 

障害一級で医療費無料。

患者本人ではなく家族が使う障害年金

 

 

 

 

 

 

大久保医師の発言が、

優生思想をかもしていても

動物に優しくなくても

差別的な発言があっても

 

それら自体は絶対許せないことだと前提を置いた上で

 

患者に対する誠意だけは本物だったと感じます。

 

 

安楽死〔本来なら世界的な基準に従って「尊厳死」(自殺幇助、致死措置、延命差し控え・中止すべてを含む)という言い方が私は今のところ正しいと思うけど、ここではひとまず日本で馴染みある言葉と意味をもって使おうと思う。日本だと尊厳死=消極的安楽死のみを指すこともあるから〕の合法化を訴える上で

安楽死を施す側の動機は

それを一般化する上で

軽んじていいものではない。

これは自分の中でも変わらないと思う。

 

 

けれど現状、

たとえ何に対して最低の医者だったとしても

法的に、社会的に、安楽死が認められていないから

患者は医者さえ選べない。

 

自身の医師免許を剥奪される覚悟を持ってでも

患者の悲願をきいて安楽死を施してくれる医師が

この国に何人いますか?

 

 

 

「普段診ている主治医じゃないから

よけい苦しませた可能性がある」

なんて書いてる記事があった。

 

その記事には、一緒に

あの相模原の事件のことも書いてあった。

 

 

まったく違う問題を引き出して

生きたかった人の叫びを

金をむさぼる利権構造に加担するようなことに使って

死にたい人の声をかき消して

 

どこまでいろんな人の気持ちを踏みにじれば気が済むのだろう。

 

…いや、踏みにじっている自覚すらないのだ。

むしろ、自分たちこそ差別意識に敏感で、「弱者」を守っている

とさえ思ってる。 

 その「弱者」の中に、私たちは入っていないんだろうな。

 

 

林さんの願いが

普段看ていた看護者たちに

どれだけ無視されてきたか

軽んじられていたのか

 

林さんと大久保さんのやりとりも

林さん本人の言葉にもよりそわずに

 

医師の言葉狩りだけして

 

安楽死賛成派だからこそ、この事件を機に議論してはいけない」

とか、そんな利権団体しぐさ晒してたら

反対派だと思われたって仕方ない。仕方ないよ。

 

 

 

「あんな発言をする医師が

世論の批判を煽り

安楽死法制化を遅らせたんだ」と

 

倒錯した悲観で絶望してる暇があったら

 

心から安楽死を望む人が

「堂々と主治医に相談できる社会にしろ」と

安楽死のために医師を選べる社会にしろ」と

そう言うべきなんじゃないですか。

 

心から患者の意思を尊重したいと望む医師が

「お金や免許の心配より、患者自身の想いに堂々と応えられるしくみにしろ」と

そう言うべきなんじゃないですか。

 

「この事件」だからこそ

「積極的安楽死を認めろ」と

言うべきなのではないですか。

 

 

 

加えて普段から擁護派であると高々と訴えながら

自己決定権を誰より大切にしておきながら

「自分が認めた弱者」でなければ

権利を認めない、なんてそれこそ差別を無意識にまき散らして

反対派しぐさしてしまう奴もなんなんだ。

 

 

どこまでもどこまでも螺旋する。

 

 

人種差別や性差別を許せない、と怒ってくれる人たちが

種差別には怒らない。

 

怒らないどころか揚々と

動物たちの苦しみの結果を笑顔で消費する。軽んじる。

動物の犠牲がないと人間は生きられないからと嘯くメディアや学校に従い続けて

何も知ろうとしない、変わろうとしない。

 

 

動物の過酷な状況を見て見ぬふりせず向き合い想像できる人たちが

安楽死が罰せられる世で不安と絶望にもがく人たちの苦しみは想像しない

 

動物なら人間の言葉を話さない。何も批判しない。

「自分が支えたい弱者」でいてくれる。

 

 

自己決定権の大切さを自認しているはずの人が

自分が判断した苦しみのレベルで他人を選別する。

 

人にはそれぞれキャパシティがある。なんて

そんなあたりまえのことを「あたりまえでしょ」と

言ってもらえる日を願うことをおかしなことだと一蹴する。

そうやって自らが培い続けてきた言葉を思いを

自らの手で砕いてしまう。

 

 

何度でも言う。

安楽死に関する当事者は

障害者ではなく

安楽死したい人」です。

 

 

私は安楽死を望んでいます。

この世の苦しみや不自由から解放されたいと願っている

すべての人の安楽死が実現することを望んでいます。

 

 

それは「苦しいから安楽死したくなるような世の中のままでいい」

ということとは違う。

 

 

自分も自分の大切な人たちも

望めば最期は苦しまずに安らかに逝けることが保障された社会で

 

家族や友人や恋人にだって

「こうしたいな」って、こそこそせずに話せる社会で

 

死に場所も、手伝ってくれる人も、タイミングも、

自由に選択できる社会で

 

それをおまもりとできる社会で

 

その人が望む「その時」まで

安心して生きられる世を

望んでいます。

 

 

 

この事件だからこそなんです。

 

 

国は安楽死を認めてください。